不幸に順位はない

こんにちは!
管理人ぺち、ことちひろです。
「不幸に順位はない」ということが管理人の考えです。
症状に重度や軽度は存在しますが、それが苦しみを順位付けするものではないのだということが今回の記事のテーマです。

苦しみは競うものではない


いま、苦しい人は苦労した人の話が聞けません。

いま、死にたい人は、生きたくても生きれなかった人の話は聞こえません。

それらは決して、彼らが優しくないわけではないのです。

むしろ当然のことだと思います。

それだけ苦しいんです。

彼らが何故それらの話を受け付けないのか、

それは、

自分の苦しみを軽んじられたと感じるからです。

「おまえの苦しみなどたいしたことがない」

と訴えられているように感じるからです。

相談した時に、自分はこうだったと、自分語りを始める人がいますが、よっぽど場にふさわしくないかぎり、その話はタブーでしょう。

相談してくれた方の信頼を裏切る行為と言ってもいいかもしれません。

だから、苦しい人、満たされていない人は同じ境遇の方の経験から目をそらします。

真剣に悩んでいる人、これ以上ないほど頑張っても苦しい人、

そんな方々に「たいしたことない」という言葉を投げかけるのは、状況にもよりますが、思いやりに欠けているでしょう。

苦しみも不幸にも順位はありません。

年月だって、症状の重さだって、悲惨な体験だって、

苦しみに優劣をつけるものにはなりえないのです。

問題は「いま、苦しいか」じゃないでしょうか?

どんなに他者から見て悲惨でも、本人は幸福なのかもしれません。

どんなに他者から見て幸福でも、本人は不幸なのかもしれません。

苦しみは本人だけのものです。

誰にも「たいしたことない」などと判断することはできないのです。

本人が世界で一番不幸だと感じるなら、それだけ苦しいんでしょう。

本人が世界で一番幸福だと感じるなら、それだけ幸福なんでしょう。

不幸に大きさはないのです。

体験は「かわいそう」を決めない


一つ、管理人の話をします。

管理人は不登校になり、不登校だった生徒が9割を占める高校に進学し、なんとか卒業し、その後、

女子大に通いました。

そこで管理人の経歴を聞いた子がこう言いました。

「かわいそうに…」

その時、モヤモヤとした感情が湧いてきました。

不登校が当然のように受け入れられた高校時代と違って、特殊な例のようにうけとめられ、私がどう幸福だと言おうが「かわいそうな子」という印象はくつがえらないのだと思ったからです。

不登校=かわいそう

障害=かわいそう

病気=かわいそう

この図式が根底にあるように感じました。

経歴や事実が、かわいそう、というわけではないんだと思います。

本人がどう思っているか、ではないでしょうか?

一生かわいそうなわけじゃないんです。

「これからもっとつらいことがあるのよ」という脅し


こんなことを言う方はいらっしゃいます。

特に自分より若い方に向かって、言うんですね。

ですが、本当にそうなのでしょうか?

未来のことなど誰にもわからないのです。

そして、大変なこと、つらいこと、それは誰が判断するのでしょうか?

「社会に出たらもっと大変なことがある」

「世の中甘くない」

こんなことを言う人、身近にいますよね?

ですが、忙しい、大変、つらい…、これらはイコールではありません。

そして、その発言をする人は、自分がそうだっただけじゃないでしょうか?

大学院を卒業後、「社会は大変」と聞いて就職した方で

「研究室のほうが大変だった」

という話はありますし、

「小学生の時が一番苦しかった」

などという人もいます。

「未来を考えるようになったから人はうつになる」

という話もあります。

この話だと、未来を考えれる発達段階に達し、たくさんの予想が出来る人、想像力の高い人ほど苦しむ可能性が高いことになります。

実際、大学院博士課程修了者の自殺率は日本の自殺率に比べて桁違いに高いです。

(博士課程修了者の進路実態に関する調査研究)

※注意:大学院博士課程に行ったから自殺するわけではありません。

このことからも、苦しんでいる人に、さらに深い絶望が待っているなどと暗い未来を暗示させることを言うのは、あまりよくない行為ではないでしょうか?


長くなりましたが、今回の記事で言いたかったことは、タイトルのままです。

 

不幸に順位はない

だれがなんと言ったって、

苦しいものは苦しいんです。

悲しいものは悲しいんです。

つらいものはつらいんです。

そのことを、苦しんでいる人、そして周囲の方に感じてほしくて書きました。

ここまで読んで下さりありがとうございます。

また、次の記事でお会いしましょう(^人^)